2013年7月28日日曜日

物語詩 耳なし芳一

昔、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家と源氏の、永い争いの最後の戦があった。

平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝と共に、まったく滅亡した。

そうしてその海と浜辺とはその怨霊に祟られていた……


夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、

また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。

これ等の死者を慰めるために建てられたのが阿彌陀寺であった。

墓地は寺のそばの海岸につくられた。


この阿彌陀寺に芳一という目の見えない男が住んでいた。

この男は謳いながら、琵琶を弾くのがうまく

壇ノ浦の戦の歌を謡うと誰もが涙をながした。

この寺の住職は芸事が好きで芳一を住まわせていた。


ある夏の夜の事、住職は芳一だけを寺に残して出かけた。

ビーン ビーン ビーン ビーン

芳一は縁側に出て琵琶を練習しながら住職の帰りを待った。

 夜半過ぎ裏門から近よって来る足音が聞えた。

ジャ ジャ ジャ ジャリ ジャリ

『芳一!』

 『芳一!』

それは住職ではなかった。

『私は盲目で御座います!

――どなたがお呼びになるのか解りません!』


『何も恐わがる事はない、

拙者は近くに住むの殿の使いだ。

お前が戦争(いくさ)話を語るのが、うまいと聞きつけ

演奏をお聞きになりたいとの御所望である

琵琶をもち即刻拙者と来るがよい』


 当時、侍の命令と云えば反くわけにはいかなかった。
芳一は草履をはき琵琶をもち、ついて行った。

ヒヤリヒヤリ

手引きをしたその手は鉄のようであった。

カタカタカタカタ

武者の足どりは甲冑をつけている事を示した――


芳一は自分の幸運を考え始めた――

自分の唄を聞きたいという殿様はきっと一流の方に外ならぬと


やがて侍は立ち止った。

「開門!」

 ガガガガガ

閂(かんぬき)を抜く音がして、二人は中へ這入って行った。

シャシャシャシャシャ
サササササ

 ススススス

 急いで歩く跫音、襖のあく音、女達の話し声などが聞えて来た。

女達の言葉から察して、芳一はそれが高貴な家の召使である事を知った。

大広間に通され大勢の息が聞こえてくる

生ぬるい風が芳一の頬をなでた

女の声が芳一に向ってこう言った――

 『琵琶に合わせて、平家の物語を語っていただきたいという御所望に御座います』

  芳一はこう訊ねた――

 『物語のどこを御所望で御座いますか?』

  女の声は答えた――

 『壇ノ浦の戦(いくさ)の話を』

芳一は声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった


はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き。

ビーン ビーン ビーン ビーン

婦人と子供との哀れな最期

両腕に子供を抱きかかえ海へ命の落ちるところ

聞くものは苦悶の声をあげ、しばらくの間はむせび悲しむ声が続いた。


そして沈黙のあと


『これから六日の間

毎晩一度ずつ、殿様の御前(ごぜん)で琵琶を。

毎晩同じ時刻に、あの家来を迎えにいかせます。

ひとつ

このことはけして人に言わぬよう』

芳一の戻ったのは夜明けであったが、

その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――


翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに来て、

かの高貴の集りに連れて行かれ、そこで芳一はまた謳う。


ビーン ビーン ビーン


行く晩か過ぎると寺の者たちの知るところとなり

芳一は住職に呼びつけられた。

住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、――

 『芳一、あんなに遅くどこへ』

芳一は約束があるので黙っていた。

住職は心配したがそれ以上何も訊ねず、ひそかに寺の者たちを芳一の見張りにつけた。


その晩、芳一が寺を脱け出して行くのを見たので、寺の者は提灯をともし、そのあとをつけた。

ザザザザザ

その晩は雨であった。

道は暗く、狭く



はやく はやく

どこかへいきたいのか

なきながらいく


せまく くらく

なれないところなのか

なきながらいく


なきがら

なぜて

なきながらいく


寺の者たちは、芳一を見失った。

探し回ると、阿彌陀寺の海岸の墓地の中に、琵琶の音が聞える。

音のする方にいくと

そこで墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く謡う芳一をみた。

その背後(うしろ)と周囲(まわり)と、それから到る処、無数の墓の上に鬼火が見えた……

寺の者は声をかけた

『芳一さん!――芳一さん!』

しかし芳一には聞えない。

寺の者は芳一をつかまえ――耳に口をつけて声をかけた――

 『芳一さん!――芳一さん!』

一同は芳一を捕(つかま)え、力まかせに寺へつれ帰えり、住職に事の次第を話した。


問い詰められ、芳一は長い間それを語ることを躊躇していたが、

ようやく

最初、侍の来た時以来、あった事をいっさいを話した。

 『芳一、お前の身は今、大変に危うい。

もしこれまであった事の上に、

またも、その云う事を聴いたなら、お前はその人達に八つ裂きにされる事だろう。

今夜、私は行事をするように呼ばれ、

お前と一緒にいるわけにいかぬが、前の身体を護るために、その身体に経文を書いて行く』


住職は芳一を裸にし、筆で芳一の、

胸、背中、頭、顔、頸、手足――身体中どこと云わず、足の裏にさえも――

お経の文句を書きつけた。


『今夜、私が出て行ったらすぐに、お前は縁側に坐って、待っていなさい。

すると迎えが来る。が、どんな事があっても、返事をしたり、動いてはならぬ。

口を利かず静かに坐っていなさい――少しでも声を立てたりすると、お前は切り刻まれる』


日が暮れ、芳一は言いつけられた通り縁側にじっと座る。

咳もせず、聞えるようには息もせずに。


ジャ ジャ ジャ ジャリ ジャリ

『芳一!』

『芳一!』

『芳一!!』


芳一は石のように静かにしていた。

縁側に上る重もくるしい足音がした。

足はしずしずと近寄って――

芳一の傍に止った。


『ここに琵琶がある、だが、芳一は―

ただその耳が二つ、あるばかりだ!……

道理で返事をしないはずだ、返事をする口がないのだ

身体は何も残っていない……

よし殿様へこの耳を持って行こう――

出来る限り殿様の仰せられた通りにした証拠に……』


ヒヤリヒヤリ

 芳一は鉄のような指で両耳を掴まれた。


羽がもげる

髪がもげる

肉がもげる

陰がもげる

求めるがゆえ

耳がもげる

もげるがもげて

闇が漂う



痛さは非常であったが、芳一は声をあげなかった。

芳一は頭の両側から濃い温いものの滴って来るのを感じた。


日の出前に住職は帰って来た。急いで縁側へ行くと、

何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然(ぞっ)として声をあげた――

それは提灯の光りで、そのねばねばしたものが血であった事を見たからである。

芳一はだまってそこに坐っているのを住職はみた――

傷からはなお血をだらだら流して。


『おお、可哀そうに、可哀そうに芳一!』

と住職は叫んだ――

『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!……

お前の身体中くまなく経文を書いたに――耳だけが残っていた』


医者の助けで、芳一の怪我はほどなく治った。

この不思議な事件の話は諸方に広がり、

この男は耳無芳一という呼び名ばかりで知られていた。





底本 「耳なし芳一」 小泉八雲

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季節が来て 人ははなれて 風が吹く 冷たい手のひらで 去っていく 金魚 煙であればいい 背徳の館に 君の影が さす